行き過ぎた改革を見直そうという政府・与党の姿勢

 「日本郵政から十分な説明がなく、入札の過程が不透明なままだ」。鳩山総務相は4日、記者団にこう述べた。この日、総務省は日本郵政株式会社法に基づいて入札の経過などを16日までに詳しく報告するよう同社に命じた。報告が十分でなければ、立ち入り検査に踏み切る方針だ。

 日本郵政は「入札に参加した27社の社名と応札金額、オリックスとの契約書も提出した。立ち入り検査は回避できるのではないか」(幹部)と見ている。

 鳩山総務相と日本郵政の間で食い違うのが、譲渡価格をめぐる見解だ。オリックスへの一括譲渡額は約109億円。入札の前提条件は、従業員約3240人の雇用継続とかんぽの宿の一括譲渡だった。かんぽの宿は年間50億円規模の赤字事業で、収益力を考えると価格は適正、というのが日本郵政の立場だ。一方、総務相は70施設の土地・建物代が約2400億円だったため、「100億円なんてバカなことはない」と強調する。

 また、民営化前の旧郵政公社が07年に不動産を一括売却した際、評価額が1万円とされた施設が6000万円で転売されていた例も判明している。

 入札の公正さも、焦点の一つだ。鳩山総務相は「入札なのか、(随意契約に近い)提案コンペなのかはっきりしない」と指摘。27社あった入札応募者のうち16社が途中辞退した理由や、1次入札に比べて2次入札価格が大幅に下がったことなどに疑問を示した。

 総務相の疑念は、政府の総合規制改革会議などの議長を務め、小泉改革の旗振り役だった宮内義彦氏が会長のオリックスが落札したことが出発点。西川善文日本郵政社長は「疑いを持たれることはない」と断言するが、両者の溝は埋まらない。

 明海大の前川俊一教授は「雇用継続などの条件が付いているのであれば、不動産価値だけで価格を議論するのは公平ではない」と話す。このままオリックスとの契約を白紙に戻した場合、同社以上の入札額を提示する業者が出てくるかは不明で、売却に時間がかかればかかるほど赤字は積み上がっていく。

 ◇強気の鳩山邦氏 「脱小泉」路線が後押し
 郵政民営化に対して鳩山総務相は、もともと批判的な見解を持っていた。そこに火をつけたのが「かんぽの宿」一括売却計画の総務相への報告が、昨年12月26日と、事実上の御用納めの日だったことだ。総務省内の事情で遅れたのだが、「駆け込み的な報告」と受け止めた鳩山氏は、旧郵政省出身の幹部に疑問点の整理を指示。郵政造反組だった山口俊一首相補佐官からもアドバイスを受けた。

 小泉改革の見直しを掲げる麻生政権。鳩山氏は、麻生太郎首相からも「どんどんやるように」とお墨付きを得たという。

 次期衆院選を前に、行き過ぎた改革を見直そうという政府・与党の姿勢も、鳩山氏を後押しする。自民党内では、次期衆院選で苦戦が予想される反郵政民営化グループを中心に「『郵政票』が戻ってくるのでは」(中堅議員)と期待感が強い。

 一方の民主党も、選挙協力を結ぶ国民新党との関係から、鳩山氏の姿勢に異を唱えにくいのが実情だ。ただ、党の支援組織である「日本郵政グループ労組」は今回の売却を「雇用が確保される」と歓迎しており、党内に微妙な温度差も生まれてきている。

 鳩山氏の強みは、総務省内の旧郵政省出身者から全面支援を受けていることだ。譲渡時期や一括方式などへの疑問点は、旧郵政省から引き継いだ郵政行政部が整理した。

 今のところ、鳩山氏が強硬姿勢を崩す見込みはない。ただ、オリックスへの一括売却に代わる案は示せておらず、世論にらみの微妙な判断を迫られる場面もありそうだ。

旧日本郵政公社が1万円で売却した鳥取県内の「かんぽの宿」が6千万円で転売されていたことについて、鳩山総務相は31日、「6千万円で転売されたというのは衝撃的だ」と述べ、旧公社時代を含め、日本郵政の施設の売却価格を疑問視した。宇都宮市で記者団の質問に答えた。

 鳩山氏は「例えば、(大分県)日田のかんぽの宿は、土地代にもならない1億1千万円なのか。買い取ったところが20億円、30億円で転売することになりはしないか」とも語り、今後、同様の転売が起きることに懸念を示した。

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耐性ウイルスが国内でも広まった場合

国内でこの冬流行しているインフルエンザウイルスの約3割が、治療薬「タミフル」に対する耐性を獲得していると、厚生労働省が16日、発表した。

 国内の医療現場ではタミフルが多く使用されており、厚労省は治療薬を慎重に選ぶよう呼び掛けている。

 耐性ウイルスが確認されたのは、国内で流行している3種類のウイルスのうち36%を占める「Aソ連型」。8日までに国立感染症研究所に届け出があった11都道府県の計35人分中、34人分(97%)で耐性が確認された。

 昨冬の2・6%に比べ極めて高率で、厚労省は残り36府県の検体検査を進めるとともに、研究班を組織して耐性患者の容体や治療法を調査する方針だ。

 厚労省によると、タミフル耐性ウイルスに対しては別のインフルエンザ治療薬「リレンザ」が有効で、Aソ連型以外の「A香港型」「B型」からは耐性ウイルスは見つかっていない。

 Aソ連型の耐性ウイルスは昨冬に全世界で確認され、今冬もすでに米英などで見つかっている。タミフルをほとんど使用しない国でも出現しており、特定の遺伝子が自然変異して耐性を獲得したらしい。

 厚労省は新型インフルエンザ対策にタミフルを2800万人分備蓄しているが、「新型インフルエンザが直ちにタミフル耐性を得るとは考えていない。現段階で備蓄計画に変更はない」と話している。

 耐性ウイルスが見つかった11都道府県は次の通り。▽北海道▽宮城▽千葉▽東京▽静岡▽三重▽滋賀▽大阪▽兵庫▽広島▽山口

インフルエンザ治療薬「タミフル」が効かない耐性ウイルスについて、厚生労働省は今冬、緊急の研究班を設置し、耐性ウイルスに感染した患者の全国的な実態調査に乗り出すことを決めた。

 欧米などで耐性ウイルスの急増が次々と報告されているが、世界最大のタミフル使用国である日本国内で耐性ウイルスが広まると医療現場が混乱する可能性があるためだ。

 国立感染症研究所によると、国内の耐性ウイルスの出現率は昨冬で2・8%と低いが、米国では昨冬が11%、昨年秋に実施した50試料を対象にした予備調査では98%に跳ね上がった。このため、米疾病対策センター(CDC)は先月、今冬の主流は耐性ウイルスであると判断し、薬を投与する際には、別のインフルエンザ治療薬であるリレンザなどを併用することを勧めた緊急の治療指針を発表した。

 欧州全体でも昨冬、調べたウイルスの20%が耐性を獲得し、ノルウェーでは67%に達している。タミフルの使用頻度が低い国でも耐性を獲得していることから、耐性ウイルスは自然発生して流行しているとみられている。

 新型インフルエンザへの変異が心配される高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)に感染した東南アジアなどの外国の患者で、タミフルを早期に服用しなかった人はすべて死亡している。このため国などは、新型インフルエンザ対策として、流通分も含め2800万人分のタミフルを備蓄している。

 しかし、耐性ウイルスが国内でも広まった場合、そこに人が免疫を持っていない新型インフルエンザが来襲すると、同時に感染するうちに新型インフルエンザが耐性を獲得、備蓄されているタミフルが効かないまま感染が拡大しかねない。

 調査は、国立国際医療センターなどが中心となり、「Aソ連型インフルエンザウイルス」の3割以上に耐性が見つかった鳥取県を含め、北海道から九州まで全国6~7か所で、流行状況を調べる。タミフル使用との因果関係や、家族内や学校内での集団感染などの患者情報も収集する。タミフル以外の薬の使用状況も調べ、研究班では新たな治療指針を作成する方針だ。

 国立感染症研究所によると、今冬も、宮城県や滋賀県の小学校児童から耐性ウイルスが見つかっている。厚労省は「耐性ウイルスがさらに広まったときに備え、治療薬の適切な使い方を検討したい」としている。

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コンピュータに侵入した不正プログラム

トレンドマイクロ株式会社(本社:東京都渋谷区、代表取締役社長 兼 CEO:エバ・チェン 東証一部:4704 以下 トレンドマイクロ)は、2008年度のインターネット脅威レポート(日本国内)をお知らせします。
※このレポートは2008年12月18日にご報告した速報(2008年1月1日~12月15日分)の最終版になります。

 2008年の不正プログラム感染被害の総報告数は56880件で、2007年同時期の63726件から約10.7%減少しています。しかし、USBメモリをはじめとするリムーバブルメディアの不正な設定ファイル「MAL_OTORUN(オートラン)」の被害が非常に目立つ一年となりました。「MAL_OTORUN」は、2008年1月から12月までの期間において通算9ヶ月で1位となり、年間の2870件は、被害の分散化が進んだ2005年以来、年間で最も報告数を集めた不正プログラムとなっています(表1)。

 また、コンピュータに侵入した不正プログラムがWebサイトに接続し、別のプログラムをダウンロードする「Webからの脅威」が感染報告のほとんどを占める状況となっており、攻撃者にとっては、いかに最初の攻撃を成功させ、悪意のWebアクセスにつなげるかが関心事になっています。
 攻撃の発端となる侵入経路は多様化しており、ユーザが注意を払うアンダーグラウンドなWebサイトやアダルトサイト、英語の迷惑メール以外に、一般にセキュリティ意識の盲点となるUSBメモリや正規Webサイトの改ざんといった手法まで広がりを見せています。加えて、偽セキュリティソフトを代表とするソーシャルエンジニアリング手法による詐欺・脅しといった手口も流行しました。
 攻撃の最終目標は換金できる情報をコンピュータ・ネットワークから盗み取ることにあり、2008年はオンラインゲームに関連したID・パスワード情報を狙う不正プログラムが最も多く発見されました(表2)。海外ドメインで配布された不正プログラムで日本国内のユーザが被害を受けるケースも多く、国・地域に依存しにくいインターネット犯罪として、ローリスクで金銭を取得しやすいものが今後も標的になると考えられます。
 攻撃者は、情報をより効率的に盗むため、ユーザに気付かれないよう不正プログラムを侵入させ、見えない形でWebによる連鎖活動を行うことにますます注力していくことでしょう。2008年はUSBメモリによる感染が目立ちましたが、リムーバブルメディアであるSDカードやCFカードにも同様の危険性は存在し、少ないながらも実際に感染が報告されてきています。攻撃者がユーザの盲点を狙ってくる以上、「これに注意すれば絶対に大丈夫」と思う自信が隙につながる恐れがあります。

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英文学研究のため英国留学

明治33年(1900年)5月、文部省より英文学研究のため英国留学を命ぜられる。メレディスやディケンズをよく読みあさった。『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりするが、英文学研究への違和感がぶりかえし神経衰弱に陥り始める。また東洋人であることでいわれなき人種差別を受け傷心し、研究が進まない苛立ちも重なったのか、何度も下宿を転々とする。

明治34年(1901年)、化学者の池田菊苗と2ヶ月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭しはじめる。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になったため、「夏目、精神を病む」という噂が流れる。これを文部省が耳にし、急遽帰国が命じられる。明治36年(1903年)に日本に帰国。漱石最後の下宿の反対側には、ロンドン漱石記念館が恒松郁生によって昭和59年(1984年)に設立された。漱石の下宿、出会った人びと、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。


[編集] 朝日新聞社入社と文豪への道
帰国後、漱石は第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれる。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳の滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2ヶ月別居する。明治37年(1904年)には、明治大学の講師も務める。

その年の暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。明治38年(1905年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

明治39年(1906年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百間、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。

明治40年(1907年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。明治42年(1909年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。


[編集] 修善寺の大患

東京・早稲田にある夏目漱石の銅像明治43年(1910年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。

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江戸時代前期では贅沢品

[編集] 日本
茶がいつ日本に伝わったのかははっきりしていない。茶は薬用として禅宗の修行に用いられていることから僧侶が関わっているとみられる。かつては栄西によってもたらされたのが最初と考えられていたが、最近の研究によればすでに奈良朝の頃伝来していた可能性が強い。ただし古代に伝わった茶は纏茶(てんちゃ)であったと考えられる。「日本後紀」では、弘仁6年(815年)の嵯峨天皇の近江行幸の際、唐から帰朝した梵釈寺(滋賀県大津市)の僧永忠が茶を煎じて献上したと記されている。だが、平安時代に入って文化が、純和風に変わりつつあったと同時に、茶も次第に廃れていった。茶の栽培は栄西が中国から茶の苗木を持ち帰ったのが最初と考えられていたが(そこから日本に喫茶の習慣を広めたとされた)、空海や最澄も持ち帰り栽培したという記録がある。当初は薬としての用法が主であった(戦場で、現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていた、等)が、栽培が普及すると共に嗜好品として、再び飲まれるようになった。一時(貴族社会の平安時代の遊びとして)中国のように闘茶が行われることもあったが、日本茶道の祖『南浦紹明』により、中国より茶道具などど共に当時、径山寺などで盛んに行われていた茶会などの作法が伝わり、次第に場の華やかさより主人と客の精神的交流を重視した独自の茶の湯へと発展した。当初は武士など支配階級で行われた茶の湯だが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになる。煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期である。茶の湯は明治時代に茶道と改称され、ついには女性の礼儀作法の嗜みとなるまでに一般化した。

茶は江戸時代前期では贅沢品として、慶安御触書でも戒められていたが、やがて有利な現金作物として生産が増えて大いに普及した。生産者にとっては現金収入となる一方で、金肥といわれた干鰯や油粕のような高窒素肥料を購入しなければならなかったので、生産地では農村への貨幣経済浸透を促した。

明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が持込まれて徐々に普及していくこととなる。昭和期に芸能マスコミの話題(ピンクレディが「減量のためにウーロン茶を飲んでいる」と言ったこと)からウーロン茶が注目を集め、缶入りウーロン茶が発売されると一般的な飲み物として定着した。また、この流行のため中国では半発酵茶が主であるかのようなイメージが広がった。缶入りウーロン茶の好評を受けて飲料メーカーは缶・ペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、ひとつの市場を形成するに至った。その一方で堅苦しい礼儀作法が敬遠される傾向が強まり、茶道は一般的な嗜みから、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつある。


[編集] 朝鮮半島
朝鮮半島には首露王の妃である許黃玉がインドで茶の種子を持って来たという伝説があるが、新羅興徳王3年(828年)12月に大廉が茶の種子を唐から持って来て智異山に植えたという記録が最初である(『三国史記』)。だが、緯度が高く気候が茶の栽培には適さず生産量は限られたものであった。またその品質も悪く、後述の『高麗図経』では「土産茶、味似苦渋不可入口(高麗産の茶は苦くかつ渋いので口にしてはいけない)」と記されている。『三国史記』や『三国遺事』に現れる茶に関する記述は、大部分が僧侶にまつわる話であって、当時寺院を中心に喫茶が儀礼と関係して用いられていた様子が窺われる。さらに中国宋王朝の使節である徐兢の記録『高麗図経』(正確には『宣和奉使高麗図経』)からは、高麗の喫茶法が確認されるが、その記述が不十分なことから当時の喫茶法について明確ではない。熊倉功夫氏などは抹茶法であったと推測しているが(『茶の湯の歴史 千利休まで』朝日選書404/朝日新聞社/1990)、宋時代の抹茶法では用いない「湯鼎」を使う、或いは明時代の茶書『製茶新譜』で団茶法(鼎や鍋で茶葉を煮出す方法)に対して用いられている動詞「烹」を使うなど疑問点が多い(抹茶の場合は通常「点」を用いる)。

確認できております。

— posted by サイト管理者 at 11:33 am  

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